僕を通り過ぎた女の子
僕はこれまで、好きな女の子には傷つけられたり、少し病んでいる女の子と映画を見て一緒に泣いたけど、音信不通になってしまう(たぶん風の噂で暗に聞いても自殺だろう)女の子がいたり、一生懸命支えても、裏切られるようなことをされる女の子を好きになったり
なんだか、悲しい体験ばっかりしている。
せめて夢の中でも出てきたりしたら、とかどっかからひょいっとまた現れたりしてくれないかなとか。
ここ何年か俺は何かしら病んでそうな女の子がが寄ってくる傾向が多い。
いずれにせよ女のひとは綺麗な純朴なマリア様でもない。
俺の名前は神様なんかじゃない、君が泣いていても僕は何にもしてあげられない、僕は無力で飯食って、寝て、性欲がある無力な不完全な人間だ。
でもその女の子たちは、離れていってもう二度と会えないけれど、心の中に「いる」。
僕の旅の途中で出会って親密に話ししたりした女の子たちにはもう会えないけれど、それを考えると、俺の心に愛しさや悲しみがないまぜになってなんだかなんともいえなくなって、メンタル的に具合が悪くなった。もう、僕を愛してくれる人なんていないと。よこしまな欲望抱えるくらいなら、いっそ消えた方が楽だと。昨日。
「女の子はわがままだ/よくわからない生き物だ/でも優しくしてしまう/何も返ってこないのに/大人になった女の子/僕をどこまでも愛してくれよ/何も持て余さないで/好きだという気持ちだけで/何も食べなくていいくらい/愛しい顔を見せてくれよ」
(くるり『男の子と女の子』)
『科学・技術と社会倫理: その統合的思考を探る』
映画「月光」
性暴力は女性の立場に立てば、魂を破壊されるような被害であることは間違いない。このような社会においてタブー視されがちなことから目をそらさず、その魂も凌辱されるような想像を絶する痛み・苦しみを共に分かち合う映画であることを望みます。
どんな事情があったにせよ、このような犯罪は許されない。その後の心のダメージを考えれば、量刑をもっと重くすべきと個人の私見です。
工藤啓・西田亮介『無業社会ーー働くことができない若者たちの未来』朝日新聞出版(2014)
工藤啓・西田亮介「無業社会」予約したけれど、若者に対して多様な支援や支援の選択肢が限られていたり、就業を希望してもいろいろな日本独特の企業社会の合理性のない慣行のために追い込まれたり、不利になったり就業できなくなるということは今後高齢化で成長が見込めなくなる日本にとって、潜在的に貴重な労働者として戦力になりうるナイーヴな若い人々を厳しい環境下に晒し、希望を奪い、心理的に潰すことになる。
即戦力とか厳選採用とかではなしに長い目でじっくり育てるという余裕のある認識やコースで採用する(しかし企業に余裕がないというところもあるかもしれないが)などなにかと「〜力」を重視する企業社会の価値観を変えることによって社会的に包摂するという考え方もあるのではないだろうか。(そこには俺たちはこんなに残業とか一生懸命やっているのにあいつらは...といったようなみずからの利益しか考えず『社会』について考えることを失った卑小な人間が多いと推測されることが巨大な壁だが)
そうすれば若年無業者を減らし、ルサンチマンによる社会不安の対策にも寄与できるし、社会の安定や若者の生活の質を上げることになる。しいては経済的な対策になる。引きこもったりしたらそれこそ生産に貢献する度合いはゼロになるのだから。若者を叩くより、大人の責任を果たすことが先だろう。
みずからを「社会人」と称するのならば、自分の企業利益のことだけでなく、広く社会のために社会を構成する重要なアクター(経済が主だが、雇用を生み出す役割もある)である企業はなにをできるかということを全体性を俯瞰し考える必要があるのではないか。企業の利益や経済合理性だけでしか物事を見ないのならばそれは「社会人」ではなく「会社人」でしかない。
もちろんCSRという考えや実践もあるが、それは専ら自社のイメージアップという広告的戦略の道具として使われているケースが多い気がしてならない。 そして、山積する社会問題などは政治に丸投げし、政治家を叩く。 『社会』のなかの企業として何かできることを問う姿勢が必要ではないか?
NHKカルチャーラジオ:文学の世界 大人のための宮澤賢治再入門
NHKカルチャーラジオ 文学の世界 大人のための宮沢賢治再入門―ほんとうの幸いを探して (NHKシリーズ)
- 作者: 山下聖美
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/12/25
- メディア: ムック
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毎回楽しみにしているカルチャーラジオがある。
「大人のための宮沢賢治再入門」というNHK第二で木曜の夜に放送されているラジオ
先生が日芸(日本大学芸術学部)の先生で話もとてもうまく面白い。
先週は「宮沢賢治と母なるもの」というテーマで有名な「やまなし」を取り扱った講義。
先生曰く「クラムボン」=「お母さん」という面白い文学的な解釈に目から鱗だった。
『クラムボンはかぷかぷわらったよ』その『かぷかぷ』という優しいイメージと「ふ」にまるがついている柔らかさ
そして水面に浮かぶ「泡」の丸いイメージ。
頁をめくると不意に『クラムボンは死んだよ』『クラムボンは死んでしまったよ....。』と唐突に死について、いなくなってしまったことについてセリフが出てくる
そしてまたいなくなってしまった優しいお母さんのイメージを思い出すように『クラムボンはわらったよ。』『わらった。』
そして、また急にカワセミが魚を捕食する。どうしょうもない無常。
お父さんが出てきて『お魚は怖い所へ行った』という生から死へと向かうことへの暗示のセリフ。
一、五月が終わり 二、十二月の場面に転換し、蟹の子供らはもうよほど大きくなる。
そこの冒頭の描写でも丸い母性を象徴するような「白い柔らかな円石(まるいし)も転がって来」という文章が現れる。
その次の頁をめくってみると、蟹の兄弟がお母さんを思い出すようにどれだけ「まあるい」泡を作れるか競っている。
生と死。喪失。母性的な「まあるい」「柔らかな」イメージ。お父さんがいるのに、お母さんがいないことなど
先生の「読み」も補助線に、「やまなし」という作品のファンタジックな童話としての要素を無邪気に感受する読みとは違う深い読みができて唸ってしまった。
「母なるもの」や「お母さん=クラムボン」が殺されたというセリフと
それでも蟹の兄弟が『かぷかぷ』と優しいイメージで笑っていたお母さんを思い出しながら、けなげに「まあるい」優しい泡を吐いている(のでは?)と感受しながら読んでいると胸に杭を打たれるような切なさと寂しさと悲しみを感じてしまった。
加藤典洋『戦後入門』をめぐって
加藤典洋さんは明治学院にいたこともあって、(国際学部の授業に潜ったこともあったっけ。ちなみにそのポストをついだのが高橋源一郎 現明治学院大教授 *もちろん筆者は明治学院大卒)
僕に日本語と批評という営みを明瞭にものすごくシンプルに氷解させてくれた人だけど、
昨年、加藤さんの集大成とも言えるこの本の出版を心待ちにして図書館で早めに予約をかけて読んだ。
読後感はあまり感興はなかった。「敗戦後論」の続きで具体的な「ならどうすれば良いか?」ということを書いていたが
確かに首肯できる部分もあるけれども、現下の国際政治のリアリズムから考えて加藤典洋のそのソリューションはいささか
現実性が乏しく空理空論のように俺には感じられた。
ということなのでデビュー作である「アメリカの影」を読んでみた。時代の文脈をカッコに入れても、ここでは江藤淳「成熟と喪失」田中康夫「なんとなく、クリスタル」を手掛かりに何か本質的なことを述べていると思った。
日本が戦後失ったもの。
俺はその中でも西欧化・近代化による日本の”自然”の喪失を深く読み取る。
3・11を経て、5年後の日本の状況からは。
横光利一の死の際に川端康成は「私は日本の自然・花鳥風月こそ日本人の本質だ。それを私は文学者として生きる」といった後に〈生きれなく〉なって自死した。
俺は昭和60年生まれだが、加藤典洋や江藤淳そして今読んでいる
「終末の思想」nhk新書(2013年)の著者 野坂昭如の感性に何かとても共鳴してしまう。
それは何なんだろう。そして俺と同世代やそれより下の世代とのその共感を共有できない時代はなんなんだろう。周りを見てもそんな滅びの予感やむしろ滅亡へ、敗戦直後のような焼け野原にリセットされることを密かに願うような俺の欲動などは、どうでもいいことなんだろうなと。
そして、そんな自然=日本を解体した、動物化(東浩紀)の快楽の中に生きる私たちの、日常の〈自明性〉を問い直すとしたら....
そんな懸隔など何も感じないような空気の中に生きる我々は何なんだろうと激しい違和感みたいなものを感じる俺がいる。3・11も5年が経てば、それはその瞬間現実にあった悲劇や死や血なまぐさい光景は減菌脱色されて、
シュミラークルとしてTVから流れる甘ったるい復興ソングと悲劇にある美談がことさらに持ち上げられ、語られ、当事者ではなかった人々に消費されるだけである。