『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

加藤典洋『戦後入門』をめぐって

 加藤典洋さんは明治学院にいたこともあって、(国際学部の授業に潜ったこともあったっけ。ちなみにそのポストをついだのが高橋源一郎明治学院大教授 *もちろん筆者は明治学院大卒)
僕に日本語と批評という営みを明瞭にものすごくシンプルに氷解させてくれた人だけど、
昨年、加藤さんの集大成とも言えるこの本の出版を心待ちにして図書館で早めに予約をかけて読んだ。

 

 読後感はあまり感興はなかった。「敗戦後論」の続きで具体的な「ならどうすれば良いか?」ということを書いていたが
確かに首肯できる部分もあるけれども、現下の国際政治のリアリズムから考えて加藤典洋のそのソリューションはいささか
現実性が乏しく空理空論のように俺には感じられた。

 

ということなのでデビュー作である「アメリカの影」を読んでみた。時代の文脈をカッコに入れても、ここでは江藤淳「成熟と喪失」田中康夫「なんとなく、クリスタル」を手掛かりに何か本質的なことを述べていると思った。

 

 日本が戦後失ったもの。

俺はその中でも西欧化・近代化による日本の”自然”の喪失を深く読み取る。
3・11を経て、5年後の日本の状況からは。

横光利一の死の際に川端康成は「私は日本の自然・花鳥風月こそ日本人の本質だ。それを私は文学者として生きる」といった後に〈生きれなく〉なって自死した。

俺は昭和60年生まれだが、加藤典洋江藤淳そして今読んでいる
「終末の思想」nhk新書(2013年)の著者 野坂昭如の感性に何かとても共鳴してしまう。

 

 それは何なんだろう。そして俺と同世代やそれより下の世代とのその共感を共有できない時代はなんなんだろう。周りを見てもそんな滅びの予感やむしろ滅亡へ、敗戦直後のような焼け野原にリセットされることを密かに願うような俺の欲動などは、どうでもいいことなんだろうなと。

 

 そして、そんな自然=日本を解体した、動物化(東浩紀)の快楽の中に生きる私たちの、日常の〈自明性〉を問い直すとしたら....

 

 そんな懸隔など何も感じないような空気の中に生きる我々は何なんだろうと激しい違和感みたいなものを感じる俺がいる。3・11も5年が経てば、それはその瞬間現実にあった悲劇や死や血なまぐさい光景は減菌脱色されて、

シュミラークルとしてTVから流れる甘ったるい復興ソングと悲劇にある美談がことさらに持ち上げられ、語られ、当事者ではなかった人々に消費されるだけである。

 

 

戦後入門 (ちくま新書)

戦後入門 (ちくま新書)

 

 

 

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

 

 

 

終末の思想 (NHK出版新書 398)

終末の思想 (NHK出版新書 398)