『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

工藤啓・西田亮介『無業社会ーー働くことができない若者たちの未来』朝日新聞出版(2014)

 

無業社会 働くことができない若者たちの未来 (朝日新書)

無業社会 働くことができない若者たちの未来 (朝日新書)

 

 

 工藤啓・西田亮介「無業社会」予約したけれど、若者に対して多様な支援や支援の選択肢が限られていたり、就業を希望してもいろいろな日本独特の企業社会の合理性のない慣行のために追い込まれたり、不利になったり就業できなくなるということは今後高齢化で成長が見込めなくなる日本にとって、潜在的に貴重な労働者として戦力になりうるナイーヴな若い人々を厳しい環境下に晒し、希望を奪い、心理的に潰すことになる。
 

 即戦力とか厳選採用とかではなしに長い目でじっくり育てるという余裕のある認識やコースで採用する(しかし企業に余裕がないというところもあるかもしれないが)などなにかと「〜力」を重視する企業社会の価値観を変えることによって社会的に包摂するという考え方もあるのではないだろうか。(そこには俺たちはこんなに残業とか一生懸命やっているのにあいつらは...といったようなみずからの利益しか考えず『社会』について考えることを失った卑小な人間が多いと推測されることが巨大な壁だが)
 そうすれば若年無業者を減らし、ルサンチマンによる社会不安の対策にも寄与できるし、社会の安定や若者の生活の質を上げることになる。しいては経済的な対策になる。引きこもったりしたらそれこそ生産に貢献する度合いはゼロになるのだから。若者を叩くより、大人の責任を果たすことが先だろう。
みずからを「社会人」と称するのならば、自分の企業利益のことだけでなく、広く社会のために社会を構成する重要なアクター(経済が主だが、雇用を生み出す役割もある)である企業はなにをできるかということを全体性を俯瞰し考える必要があるのではないか。企業の利益や経済合理性だけでしか物事を見ないのならばそれは「社会人」ではなく「会社人」でしかない。
 もちろんCSRという考えや実践もあるが、それは専ら自社のイメージアップという広告的戦略の道具として使われているケースが多い気がしてならない。 そして、山積する社会問題などは政治に丸投げし、政治家を叩く。 『社会』のなかの企業として何かできることを問う姿勢が必要ではないか?