【前の「政治・経済」の記事に関する補足ー「法治国家」と「法の支配」の違い】
「法治国家」と「法の支配」のコンセプトの違いで何が一番違うかということを補足したい。
端的に言えば「法治国家」という概念の理論上はいわゆる「悪法も法なり」ということを許容できてしまう。卑近な例で言えば、世論調査でも国民は批判的で反対する人が多い集団的自衛権や特定秘密保護法など...
一方で「法の支配」というのは国民が法を代議制民主主義を通して、民意を反映させて権力者を「法で縛る」というロジックなので現実的なことは措いておいて「悪法も法なり」ということを防止するコンセプトであるのを強調した意味を含むのが一番の相違点かなと思う。
しかし、日本の代議制民主主義のリアルからはおおよそ、そのコンセプトや概念が機能しながら民主主義が回っているとは思えないし、そもそも民主主義を運営する前提が様々おかしいということから機能不全に陥っていることは間違い無いだろう。
しかし、コトバというのは大事だ。
常套句のように手垢やヘドロにまみれた「コトバ」を丁寧に洗って
再びその「コトバ」(そのコトバが生まれた歴史の背景や概念やコンセプトを含め)本来の活力を取り戻させる営みがまず必要だろう。
【最近高校の教科書を復習シリーズー「政治・経済」編】
神保町の三省堂本店で今「高校教科書フェア」というものがやっていて
教科書は基本的に消費税非課税かつ安いので「政経」と「倫理」の高校教科書(山川出版社の)をこないだそれぞれ456円で買った(安っ!)のが始まりである。
しかし、高校の政治経済でも甘く見てはならん。
例えば政治のsectionでも「法の支配」と「法治主義/国家」の違いをコンパクトにわかりやすく説明している。
テレビを見ていても、日本の政治家は「法の支配」とは言わずに日本は「法治国家として〜〜」という発言がよく散見される。
でも、その「法治国家」は教科書の中ではどっちかというとdisられ気味で19世紀の"人の支配"も伴う余地がある「法治主義/国家」から
「法の支配」となり、為政者や君主や政治家は国民主権の国民が制定した法律のもとで政治を行うこと(「法の支配」)にupdateされ、好き勝手できなくなった。
と素直に教科書読めば対比されつつ、そのような流れなので。(いまの日本の政治の悲惨な現実はとりま措いておくにしても)
日本の政治家は少なくとも、高校の「政治・経済」レベルすら危ういのか...くそうみたいに賢い高校生だったら感じるだろう。
実際、高校の「政治・経済」が危うい国会議員は多そうだ。
現に俺も高校生の時はそう感じていたし、高校生の時は受験科目として「世界史」を学んでいたのでイラク戦争開戦前の時に日本がフランスやドイツみたいに
国連で丁々発止の議論をなんでしないんだ!平和憲法あんだろくらぁ!!と歯ぎしりをしていたことを思い出した。
(もちろん日本の国防を日米安保に任せているからあんま言えない→だから防衛費増やして核武装すべきとか
いやいや、憲法9条と憲法前文の趣旨からスイスみたいに「非武装中立」でとか(今は中国が台頭しているからそんなこと言えないけど)、
いや、アメリカにガツンと言うことができない不自由さはあるが、日米安保の方が国防費や安全保障的にコスパがいいじゃんとかまで踏み込んで当時はいろんな視点から考えられなかったけど...)
僕を通り過ぎた女の子
僕はこれまで、好きな女の子には傷つけられたり、少し病んでいる女の子と映画を見て一緒に泣いたけど、音信不通になってしまう(たぶん風の噂で暗に聞いても自殺だろう)女の子がいたり、一生懸命支えても、裏切られるようなことをされる女の子を好きになったり
なんだか、悲しい体験ばっかりしている。
せめて夢の中でも出てきたりしたら、とかどっかからひょいっとまた現れたりしてくれないかなとか。
ここ何年か俺は何かしら病んでそうな女の子がが寄ってくる傾向が多い。
いずれにせよ女のひとは綺麗な純朴なマリア様でもない。
俺の名前は神様なんかじゃない、君が泣いていても僕は何にもしてあげられない、僕は無力で飯食って、寝て、性欲がある無力な不完全な人間だ。
でもその女の子たちは、離れていってもう二度と会えないけれど、心の中に「いる」。
僕の旅の途中で出会って親密に話ししたりした女の子たちにはもう会えないけれど、それを考えると、俺の心に愛しさや悲しみがないまぜになってなんだかなんともいえなくなって、メンタル的に具合が悪くなった。もう、僕を愛してくれる人なんていないと。よこしまな欲望抱えるくらいなら、いっそ消えた方が楽だと。昨日。
「女の子はわがままだ/よくわからない生き物だ/でも優しくしてしまう/何も返ってこないのに/大人になった女の子/僕をどこまでも愛してくれよ/何も持て余さないで/好きだという気持ちだけで/何も食べなくていいくらい/愛しい顔を見せてくれよ」
(くるり『男の子と女の子』)
『科学・技術と社会倫理: その統合的思考を探る』
映画「月光」
性暴力は女性の立場に立てば、魂を破壊されるような被害であることは間違いない。このような社会においてタブー視されがちなことから目をそらさず、その魂も凌辱されるような想像を絶する痛み・苦しみを共に分かち合う映画であることを望みます。
どんな事情があったにせよ、このような犯罪は許されない。その後の心のダメージを考えれば、量刑をもっと重くすべきと個人の私見です。
工藤啓・西田亮介『無業社会ーー働くことができない若者たちの未来』朝日新聞出版(2014)
工藤啓・西田亮介「無業社会」予約したけれど、若者に対して多様な支援や支援の選択肢が限られていたり、就業を希望してもいろいろな日本独特の企業社会の合理性のない慣行のために追い込まれたり、不利になったり就業できなくなるということは今後高齢化で成長が見込めなくなる日本にとって、潜在的に貴重な労働者として戦力になりうるナイーヴな若い人々を厳しい環境下に晒し、希望を奪い、心理的に潰すことになる。
即戦力とか厳選採用とかではなしに長い目でじっくり育てるという余裕のある認識やコースで採用する(しかし企業に余裕がないというところもあるかもしれないが)などなにかと「〜力」を重視する企業社会の価値観を変えることによって社会的に包摂するという考え方もあるのではないだろうか。(そこには俺たちはこんなに残業とか一生懸命やっているのにあいつらは...といったようなみずからの利益しか考えず『社会』について考えることを失った卑小な人間が多いと推測されることが巨大な壁だが)
そうすれば若年無業者を減らし、ルサンチマンによる社会不安の対策にも寄与できるし、社会の安定や若者の生活の質を上げることになる。しいては経済的な対策になる。引きこもったりしたらそれこそ生産に貢献する度合いはゼロになるのだから。若者を叩くより、大人の責任を果たすことが先だろう。
みずからを「社会人」と称するのならば、自分の企業利益のことだけでなく、広く社会のために社会を構成する重要なアクター(経済が主だが、雇用を生み出す役割もある)である企業はなにをできるかということを全体性を俯瞰し考える必要があるのではないか。企業の利益や経済合理性だけでしか物事を見ないのならばそれは「社会人」ではなく「会社人」でしかない。
もちろんCSRという考えや実践もあるが、それは専ら自社のイメージアップという広告的戦略の道具として使われているケースが多い気がしてならない。 そして、山積する社会問題などは政治に丸投げし、政治家を叩く。 『社会』のなかの企業として何かできることを問う姿勢が必要ではないか?