【最近高校の教科書を復習シリーズー「政治・経済」編】
神保町の三省堂本店で今「高校教科書フェア」というものがやっていて
教科書は基本的に消費税非課税かつ安いので「政経」と「倫理」の高校教科書(山川出版社の)をこないだそれぞれ456円で買った(安っ!)のが始まりである。
しかし、高校の政治経済でも甘く見てはならん。
例えば政治のsectionでも「法の支配」と「法治主義/国家」の違いをコンパクトにわかりやすく説明している。
テレビを見ていても、日本の政治家は「法の支配」とは言わずに日本は「法治国家として〜〜」という発言がよく散見される。
でも、その「法治国家」は教科書の中ではどっちかというとdisられ気味で19世紀の"人の支配"も伴う余地がある「法治主義/国家」から
「法の支配」となり、為政者や君主や政治家は国民主権の国民が制定した法律のもとで政治を行うこと(「法の支配」)にupdateされ、好き勝手できなくなった。
と素直に教科書読めば対比されつつ、そのような流れなので。(いまの日本の政治の悲惨な現実はとりま措いておくにしても)
日本の政治家は少なくとも、高校の「政治・経済」レベルすら危ういのか...くそうみたいに賢い高校生だったら感じるだろう。
実際、高校の「政治・経済」が危うい国会議員は多そうだ。
現に俺も高校生の時はそう感じていたし、高校生の時は受験科目として「世界史」を学んでいたのでイラク戦争開戦前の時に日本がフランスやドイツみたいに
国連で丁々発止の議論をなんでしないんだ!平和憲法あんだろくらぁ!!と歯ぎしりをしていたことを思い出した。
(もちろん日本の国防を日米安保に任せているからあんま言えない→だから防衛費増やして核武装すべきとか
いやいや、憲法9条と憲法前文の趣旨からスイスみたいに「非武装中立」でとか(今は中国が台頭しているからそんなこと言えないけど)、
いや、アメリカにガツンと言うことができない不自由さはあるが、日米安保の方が国防費や安全保障的にコスパがいいじゃんとかまで踏み込んで当時はいろんな視点から考えられなかったけど...)
僕を通り過ぎた女の子
僕はこれまで、好きな女の子には傷つけられたり、少し病んでいる女の子と映画を見て一緒に泣いたけど、音信不通になってしまう(たぶん風の噂で暗に聞いても自殺だろう)女の子がいたり、一生懸命支えても、裏切られるようなことをされる女の子を好きになったり
なんだか、悲しい体験ばっかりしている。
せめて夢の中でも出てきたりしたら、とかどっかからひょいっとまた現れたりしてくれないかなとか。
ここ何年か俺は何かしら病んでそうな女の子がが寄ってくる傾向が多い。
いずれにせよ女のひとは綺麗な純朴なマリア様でもない。
俺の名前は神様なんかじゃない、君が泣いていても僕は何にもしてあげられない、僕は無力で飯食って、寝て、性欲がある無力な不完全な人間だ。
でもその女の子たちは、離れていってもう二度と会えないけれど、心の中に「いる」。
僕の旅の途中で出会って親密に話ししたりした女の子たちにはもう会えないけれど、それを考えると、俺の心に愛しさや悲しみがないまぜになってなんだかなんともいえなくなって、メンタル的に具合が悪くなった。もう、僕を愛してくれる人なんていないと。よこしまな欲望抱えるくらいなら、いっそ消えた方が楽だと。昨日。
「女の子はわがままだ/よくわからない生き物だ/でも優しくしてしまう/何も返ってこないのに/大人になった女の子/僕をどこまでも愛してくれよ/何も持て余さないで/好きだという気持ちだけで/何も食べなくていいくらい/愛しい顔を見せてくれよ」
(くるり『男の子と女の子』)
『科学・技術と社会倫理: その統合的思考を探る』
映画「月光」
性暴力は女性の立場に立てば、魂を破壊されるような被害であることは間違いない。このような社会においてタブー視されがちなことから目をそらさず、その魂も凌辱されるような想像を絶する痛み・苦しみを共に分かち合う映画であることを望みます。
どんな事情があったにせよ、このような犯罪は許されない。その後の心のダメージを考えれば、量刑をもっと重くすべきと個人の私見です。
工藤啓・西田亮介『無業社会ーー働くことができない若者たちの未来』朝日新聞出版(2014)
工藤啓・西田亮介「無業社会」予約したけれど、若者に対して多様な支援や支援の選択肢が限られていたり、就業を希望してもいろいろな日本独特の企業社会の合理性のない慣行のために追い込まれたり、不利になったり就業できなくなるということは今後高齢化で成長が見込めなくなる日本にとって、潜在的に貴重な労働者として戦力になりうるナイーヴな若い人々を厳しい環境下に晒し、希望を奪い、心理的に潰すことになる。
即戦力とか厳選採用とかではなしに長い目でじっくり育てるという余裕のある認識やコースで採用する(しかし企業に余裕がないというところもあるかもしれないが)などなにかと「〜力」を重視する企業社会の価値観を変えることによって社会的に包摂するという考え方もあるのではないだろうか。(そこには俺たちはこんなに残業とか一生懸命やっているのにあいつらは...といったようなみずからの利益しか考えず『社会』について考えることを失った卑小な人間が多いと推測されることが巨大な壁だが)
そうすれば若年無業者を減らし、ルサンチマンによる社会不安の対策にも寄与できるし、社会の安定や若者の生活の質を上げることになる。しいては経済的な対策になる。引きこもったりしたらそれこそ生産に貢献する度合いはゼロになるのだから。若者を叩くより、大人の責任を果たすことが先だろう。
みずからを「社会人」と称するのならば、自分の企業利益のことだけでなく、広く社会のために社会を構成する重要なアクター(経済が主だが、雇用を生み出す役割もある)である企業はなにをできるかということを全体性を俯瞰し考える必要があるのではないか。企業の利益や経済合理性だけでしか物事を見ないのならばそれは「社会人」ではなく「会社人」でしかない。
もちろんCSRという考えや実践もあるが、それは専ら自社のイメージアップという広告的戦略の道具として使われているケースが多い気がしてならない。 そして、山積する社会問題などは政治に丸投げし、政治家を叩く。 『社会』のなかの企業として何かできることを問う姿勢が必要ではないか?
NHKカルチャーラジオ:文学の世界 大人のための宮澤賢治再入門
NHKカルチャーラジオ 文学の世界 大人のための宮沢賢治再入門―ほんとうの幸いを探して (NHKシリーズ)
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毎回楽しみにしているカルチャーラジオがある。
「大人のための宮沢賢治再入門」というNHK第二で木曜の夜に放送されているラジオ
先生が日芸(日本大学芸術学部)の先生で話もとてもうまく面白い。
先週は「宮沢賢治と母なるもの」というテーマで有名な「やまなし」を取り扱った講義。
先生曰く「クラムボン」=「お母さん」という面白い文学的な解釈に目から鱗だった。
『クラムボンはかぷかぷわらったよ』その『かぷかぷ』という優しいイメージと「ふ」にまるがついている柔らかさ
そして水面に浮かぶ「泡」の丸いイメージ。
頁をめくると不意に『クラムボンは死んだよ』『クラムボンは死んでしまったよ....。』と唐突に死について、いなくなってしまったことについてセリフが出てくる
そしてまたいなくなってしまった優しいお母さんのイメージを思い出すように『クラムボンはわらったよ。』『わらった。』
そして、また急にカワセミが魚を捕食する。どうしょうもない無常。
お父さんが出てきて『お魚は怖い所へ行った』という生から死へと向かうことへの暗示のセリフ。
一、五月が終わり 二、十二月の場面に転換し、蟹の子供らはもうよほど大きくなる。
そこの冒頭の描写でも丸い母性を象徴するような「白い柔らかな円石(まるいし)も転がって来」という文章が現れる。
その次の頁をめくってみると、蟹の兄弟がお母さんを思い出すようにどれだけ「まあるい」泡を作れるか競っている。
生と死。喪失。母性的な「まあるい」「柔らかな」イメージ。お父さんがいるのに、お母さんがいないことなど
先生の「読み」も補助線に、「やまなし」という作品のファンタジックな童話としての要素を無邪気に感受する読みとは違う深い読みができて唸ってしまった。
「母なるもの」や「お母さん=クラムボン」が殺されたというセリフと
それでも蟹の兄弟が『かぷかぷ』と優しいイメージで笑っていたお母さんを思い出しながら、けなげに「まあるい」優しい泡を吐いている(のでは?)と感受しながら読んでいると胸に杭を打たれるような切なさと寂しさと悲しみを感じてしまった。