『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

『7月の夜』

いつしか、

あったかい優しさと温もりがあった言葉も、何かのほんの些細なすれ違いでいつの間にかセメントのような言葉にすり替わって、二人の温度は冷えてゆく。降り積もる時がさらに二人を洪水のように二人を押し流し、引き離していく。

さよならなんだね。あなたはきっと幸せになれるよ?
だって僕を一瞬一瞬の刹那に幸せな気持ちにしてくれたから。僕はその尊い記憶を抱きしめて、その幸せが時の追憶になってゆくのを悲しんでいた
心はずっと雨降りでした。

恋愛における無償の愛は可能か?(未推敲・未校正)

恋愛における「無償の愛」そんなもの可能であろうか?
 
結論から言うと俺はそんなもの胡散臭いし、おおよそ簡単にはこの世界に偏在するものではないと思う。
 
例えば、キリスト教の愛の一つの形態の概念として「アガペー」というものがある。
俺は高校生の時はそれはなんて崇高な愛なんだと思ったが、今はぜんぜん違う。
 
臨床心理学を学び、ましてキリスト教信者でもない俺は「精神分析」の身も蓋もない「リビドーの交換エコノミー」を知った者としてはそんなもの形而上的概念に過ぎず、形而下(実際に私たちの生きている生活世界)にもありうるとしてもそれは極めて限定的で虚偽的な可能性が高いと私は感じる。
(*リビドー:平たく言えば対象に向かう強い心的エネルギーとここではしておこう)
 
精神分析的に考えれば、愛し愛されることとは、私の解釈だが両者のリビドー(愛し/愛されること)が厳密に等価ではなくとも、少なくとも2人の間で循環していることが健康的であると考えるし幸せであると考える。
 
無償の愛や俗に言う〈純粋〉な片思いがなぜ愛ではないか。
答えは簡単だ。私の貴重な「自己愛」という愛を対象に備給するだけで相手からは愛(リビドー)は帰ってこない。
つまり、これでは私の「自己愛」を減らし自分自身を全力で挫いている。
 
自分自身を愛せていないからだ。
自分自身の価値を認め自分自身を愛するそこから愛は始まる。
さらに踏み込んで言えば、自分自身の愛は自分一人の愛ではない
その歴史・背景を鑑みればあなたに愛を振り向けてきた両親や友達・親友・他者たちなど様々な愛に支えられ・与えられてあなたがいるはずだ。
 
時に世の中には自分の貴重な愛を一方的に対象に振り向け、不健康な愛にハマっている病理的な人もいるがそれは、自己破壊的で自分を愛せていない証拠であり、それは未成熟なものとしか言いようがない。
 
こと女性によっては母性をくすぐられるだの、母性愛が強いから云々などという人もいるかもしれないが、そういう人には「マターナリズム」(対義語は「パターナリズム」)という言葉を教えてあげた方がいいだろう。
 
(しかし、男女問わず病理的愛にハマっている人は存在するが、ここでは女性の例のみを挙げさせてもらった。) 
 
詳しい定義や詳細などはウィキペディアなどで検索されることをお願いしたいのだが、本稿の文脈からしてみれば、
不適切な女性の母性愛やマターナリズムは結局のところダメな男性をダメなまま甘やかし、自律性を奪い(自律性:自分の足でしっかり立つこと)、飼い殺し的に殺している〈弱者暴力〉に過ぎない。
 
そのようなことは優しさでも愛でもなんでもない。
自分を愛することなく、自分の貴重な愛を対象に投げ出し、貴重な自己の愛を浪費させ、しかも対象をspoilする。それは痛々しい共依存関係にすぎない。
ただの〈弱者暴力〉だ。

『梅雨の伴奏』

悲しみが村雨のようにひとしきり降り、さあっと通り過ぎてゆく。
今日は定期的にそんな1日(心象風景)だった。
 
ギタアを弾いたら、少し楽になった。スピッツの「冷たい頬」を歌詞を自分なりに少し変えて、
自分の情緒を流し込んで悲しく唄った。
 
スピッツはコードも難しくないし、わりとお手軽に唄える。
コスモス」という歌は俺の解釈では「車に乗って海に自殺に行く」というスピッツでもわりと稀有なうただ。(他にもそう捉えられる唄もあるだろうけれど)
 
秋の桜とかいてコスモス。まるで太宰の戯曲中編「冬の花火」みたいだ。
僕は地位も財産も何も保障されてはいない。
愛情を受けることも安心も保障もない、説明書もない。
くたびれた。こんなにもイカレやすい頭など、かみさまは知りはしない。
 
もうすぐ、夏がやってくる。

台頭するポピュリズム

bylines.news.yahoo.co.jp

非常に重要なことが述べられている良記事。日本の政治についても極めて示唆的である。

 

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

今日は憲法記念日ということでオススメの本3つ

 

憲法に緊急事態条項は必要か (岩波ブックレット)

憲法に緊急事態条項は必要か (岩波ブックレット)

 

 

 

憲法と政治 (岩波新書)

憲法と政治 (岩波新書)

 

 

 

憲法1 人権 (有斐閣ストゥディア)

憲法1 人権 (有斐閣ストゥディア)

 

 

【前の「政治・経済」の記事に関する補足ー「法治国家」と「法の支配」の違い】

法治国家」と「法の支配」のコンセプトの違いで何が一番違うかということを補足したい。

端的に言えば「法治国家」という概念の理論上はいわゆる「悪法も法なり」ということを許容できてしまう。卑近な例で言えば、世論調査でも国民は批判的で反対する人が多い集団的自衛権特定秘密保護法など...

一方で「法の支配」というのは国民が法を代議制民主主義を通して、民意を反映させて権力者を「法で縛る」というロジックなので現実的なことは措いておいて「悪法も法なり」ということを防止するコンセプトであるのを強調した意味を含むのが一番の相違点かなと思う。

しかし、日本の代議制民主主義のリアルからはおおよそ、そのコンセプトや概念が機能しながら民主主義が回っているとは思えないし、そもそも民主主義を運営する前提が様々おかしいということから機能不全に陥っていることは間違い無いだろう。

しかし、コトバというのは大事だ。
常套句のように手垢やヘドロにまみれた「コトバ」を丁寧に洗って
再びその「コトバ」(そのコトバが生まれた歴史の背景や概念やコンセプトを含め)本来の活力を取り戻させる営みがまず必要だろう。