『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

『竹内好セレクション』から

 

「ドレイとして、主人にかわいがられるドレイは、自分が主人になると、自分の使っているドレイを酷使する、ということをいっております。ドレイという言葉を魯迅は、よく使います。それは社会関係での実際のドレイという階級をさすのではなく、対人関係での封建遺制的な差別感をいうわけです。それから、ドレイがドレイの主人になることは、ドレイの解放ではない、ということもいっております。つまり、ドレイというものはどうしてあるかというと、ドレイの主人があるからドレイがあるのですね。ですからドレイが、自分がドレイの主人になるというときは、解放されたのか、ドレイでなくなったのかというと、そうじゃない、ドレイの主人もまたドレイなんだ、こういう哲学なのです。搾取関係なり差別関係があるということは、関係自体の問題である、ということです。これは個人の関係についてでありますが、国と国との関係についても、おなじことが考えられます。(中略)われわれの方は、失敗から教訓を汲まずに、もう一度失敗を繰り返す道を進んでいるような危険を感ずるのであります。つまり国際関係の認識についていえば、伝統の正しい継承を怠って、十九世紀の遺物である弱肉強食の古い原理に固執して、自分が、強いものの手先になって、弱いものをいじめるという気風が残念なことには残っているということに、強く不満を感じます。これが一方では、国内における差別を助長する政策が行われる。あるいは、そういう心理操作が行われるということをおそらく相互に関係しているんじゃないだろうかと思うのであります。」