『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

「目には目を」「復讐には復讐を」ーーそのようなどうしようもない連鎖は今も断ち切れてはいない。(映画 アメリカン・スナイパーについて)

 

 

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 
 いろんなことを考えた。
最後に主人公が退役兵に殺されるシーンのあと、実際の映像で伝説のスナイパーが殺されたということで沿道に星条旗と人々が群がるシーンはなんだか気持ち悪かった。これが日本の日の丸だったら戦前を思わせるようなシーンだった。
なので見終わったあとにいろいろとこれは愛国的映画とも読める節があるのかとも思えど、それは違うなと思った。なぜならPTSDや負傷した退役軍人も描かれていたし、妻とのやりとりでも戦争の負の部分や人間性を失うような心理状態に陥ることもちゃんと描かれていた。それなのでいわゆる反戦・厭戦的な映画というよりかは、イラクでの戦争とそれに付随する様々な現実を”ゴロッと”そのまま投げ出されたような映画であるとぼくは全体を総合的に観て感じた。それと大岡昇平の「野火」と田村泰次郎「蝗」という戦争文学の名作がなぜか頭に浮かんだ。
 
 長々としてもしょうがないので「野火」だけこの映画に触発されて、私に思い浮かんだことを語ろう。「野火」というのは遊兵になった主人公が飢えにより死んだ兵の人肉を食うか食わないかというテーマが一番クローズアップされる小説であるが、主人公が兵の野戦病院から食糧不足のため追い出され遊兵となりいわば、組織の中の〈兵〉であることからは自由になりえた。(それでも飢えという人間の極限状態に放り出されたのは自由ではないが)しかし、作家の彦坂諦が鋭く指摘するように突然現れたフィリピンの女(もちろん民間人)がさっと草むらから現れた瞬間に、銃を持っていた田村は条件反射的に無垢なフィリピン女を撃ち殺してしまう。そのとき全てはこの銃にかかっていたのだと銃を川に投げ捨てる。いったん〈兵〉にならされた者がそこから自由になることがいかほどに困難か、それはアメリカンスナイパーでも〈兵〉クリスが主体的に4回も戦場に征くということ、日常に帰りフラッシュバックや犬を暴力的に打ちのめそうとなってしまうことに現れている。いったん〈兵〉とならされたものは〈兵〉として身体に叩き込まれ身体化されたように条件反射的に反応してしまう。(野火の田村二等兵が〈兵〉として身体化され、無垢なフィリピン女を条件反射的に撃ち殺してしまったように。)
 
 そのことから逃れられない。戦争の刺激によって神を信じなくなったとほかの兵士の登場人物が独白するシーンやイラクの敵を狙撃するビデオをアメリカに帰っても家のテレビで見てしまうようなこと、ぼくは見ていて戦場のシーンが長かったため日常というものがどこか白昼夢みたいにみえた。(実際に非日常である戦場に一定期間行った兵士も日常に帰ったら、しばらく慣れるまでは白昼夢のように日常を体験するのかもしれない)
 だからクリスも4回の応召に答え主体的に1000日を超えるイラクへの従軍に駆り立てたのではなかろうかと思った。〈兵〉になるとはそういうことなのだと。
そして最後はイラクの野蛮な敵ではなく、あろうことか皮肉にも同胞の〈兵〉に殺されてしまう。そこには失語しかない。
戦争というものはそういうものなのだ。