『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

NHKカルチャーラジオ:文学の世界 大人のための宮澤賢治再入門

 

 

 毎回楽しみにしているカルチャーラジオがある。
「大人のための宮沢賢治再入門」というNHK第二で木曜の夜に放送されているラジオ
先生が日芸日本大学芸術学部)の先生で話もとてもうまく面白い。

 

先週は「宮沢賢治と母なるもの」というテーマで有名な「やまなし」を取り扱った講義。
先生曰く「クラムボン」=「お母さん」という面白い文学的な解釈に目から鱗だった。
クラムボンはかぷかぷわらったよ』その『かぷかぷ』という優しいイメージと「ふ」にまるがついている柔らかさ
そして水面に浮かぶ「泡」の丸いイメージ。

 

頁をめくると不意に『クラムボンは死んだよ』『クラムボンは死んでしまったよ....。』と唐突に死について、いなくなってしまったことについてセリフが出てくる
そしてまたいなくなってしまった優しいお母さんのイメージを思い出すように『クラムボンはわらったよ。』『わらった。』

 

 そして、また急にカワセミが魚を捕食する。どうしょうもない無常。
お父さんが出てきて『お魚は怖い所へ行った』という生から死へと向かうことへの暗示のセリフ。

 

 一、五月が終わり 二、十二月の場面に転換し、蟹の子供らはもうよほど大きくなる。
そこの冒頭の描写でも丸い母性を象徴するような「白い柔らかな円石(まるいし)も転がって来」という文章が現れる。

その次の頁をめくってみると、蟹の兄弟がお母さんを思い出すようにどれだけ「まあるい」泡を作れるか競っている。

 

生と死。喪失。母性的な「まあるい」「柔らかな」イメージ。お父さんがいるのに、お母さんがいないことなど
先生の「読み」も補助線に、「やまなし」という作品のファンタジックな童話としての要素を無邪気に感受する読みとは違う深い読みができて唸ってしまった。

 

 「母なるもの」や「お母さん=クラムボン」が殺されたというセリフと
それでも蟹の兄弟が『かぷかぷ』と優しいイメージで笑っていたお母さんを思い出しながら、けなげに「まあるい」優しい泡を吐いている(のでは?)と感受しながら読んでいると胸に杭を打たれるような切なさと寂しさと悲しみを感じてしまった。