『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

真木悠介/見田宗介「人間解放の理論のために」からの抜き書き

ーー現代の地を吹き抜けるシニシズムの意識を通して、われわれがわれわれ自身の物化を完成し、物質性の宇宙の暗闇に飲み込まれることを欲するのでないならば(中略)これらの要求が否定されるとき、さまざまな人間的悲惨の形態があらわれる。すなわち、創造性の否定としての倦怠および労役、愛の否定としての孤独および憎悪、そして統合の否定としての自己解体および自己嫌悪ーもちろんこれらの人間的悲惨のなかにあっても、たんなる有機的生物体としての人間は「充たされた」存在でありつづけうるし、したがってこの即自の位相の欲求に吸収されてしまった意識は、必ずしも「不幸」を感じなくてすむ。しかし同時に、創造的な仕事や愛や、あるいは自己の思想の一貫性のために、生物体としての自己の、(発生論的にはいっそう「本源的」な)要求や必要さえも否定し、さらに生命それ自体をさえなげうつこともありうることもまた、人間の現実である....

 

悲劇は悲劇一般としてあるのではなく、悲劇にも水準があり位相がある。その人の生をまずしく凝結してしまう悲劇もあれば、ゆたかに深化させていく悲劇もまたある。そしてどのような悲劇を私の悲劇として選びうるかということは、歴史的存在としてのその人の生そのものの水準と位相を定義するであろう。問題は悲劇一般の消滅ではなく、悲劇の水準と位相を変革することであろう。また相剋の消去ではなく、相剋そのものを生の深化と豊富化の契機たらしめることであろう。相剋性(矛盾)が歴史の推進力であるということは、個の歴史と類の歴史においてひとしく真理でありつづけるであろう。(202ページ)

 

人間解放の理論のために

人間解放の理論のために