『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

長田弘「立ちつくす」

朝の、空の、どこまでも、透明な、薄青い、ひろがりの、遠くまで、うっすらと、仄かに、血が、真っ白なガーゼに、滲んでひろがってゆくように、太陽の、赤い光が、滲んでゆく。一日が、はじまる。――ここに立ちつくす私たちを、世界が、愛してくれますように。

 

絶望と希望

「生まれてこなければよかった」そんなこと思った夜が数えきれないほどあった。それでもわたしはずるずると生きてきた。

いまは「生まれてこなければよかった」と人々に思わせるあらゆる世界の悲惨や障壁と向き合って闘って、逆らって生きてやろうときめた。

いろんな人のおかげでここまで来たんだ。

 

犯罪被害を受けた子どものための支援ガイド―子どもと関わるすべての大人のために

臨床心理の専門書ですがオススメです。

最近も監禁事件があったりなかなかホットなイシュー(語弊があったらすみません)というか大人がどう向き合うべきか、専門家はもちろんの事、素人にできることはどういう風に兆候に気づいてしかるべきところや専門家にリファーできるかというところも。それは殆ど社会人としての責任と言ってもいいかもしれない。

それから間違えなく子供時代に受けたトラウマは将来にわたり、心に甚大なインパクトを心的外傷として刻んでしまう事実。5年後,10年...それ以降も。

それを考えると俺なんかは子供を対象にした愚劣な犯罪が起こるたび身が切られるように心が傷むよ。

 

犯罪被害を受けた子どものための支援ガイド―子どもと関わるすべての大人のために

犯罪被害を受けた子どものための支援ガイド―子どもと関わるすべての大人のために

 

 

「母性の宗教」

 

切支丹の里 (中公文庫)

切支丹の里 (中公文庫)

 

 

 

キリスト教文学というか、隠れキリシタンキリスト教を切り口に
人間心理に対する哲学的とも言える「問い」とそれに対する〈弱き者〉の心情から人間を考察・探求してゆく遠藤周作の『思索』こそが遠藤の文学なんだと感じた。

ーー踏跡で黒ずんだ一枚の踏絵を見た感動から、基督教禁止時代の殉教者よりも、棄教した宣教師や切支丹の心情に強く惹かれた著者。島原などの隠れ切支丹の里を訪ね歩き、基督教が日本の風土と歴史の中で変貌していく様を真摯な取材と文献の中から考察する。名作『沈黙』を貫く著者独自の思想がうかがえる紀行・作品集。
(背表紙解題より)

私の感受性くらい....

欲の深い人は浅ましい。と私の感受性は感じる。
高層ビルのてっぺんかなんかでディナーといって、フェイスブックにあげる人などいるけど俺はそういう人種とは付き合えない。
羨望ではない。
シリア難民や世界中でも苦しんでいる人がいるし、日本でもいまだに東北や熊本で苦しんでいるひともいる。
そのことを考えると、たとえタワーのてっぺんでで超高級ディナーを喰っても罪悪感からちっとも俺はうまく感じないだろう。それならおれは困っている人への炊き出しの方が百万倍うまく感じるし、大事な人のためにつくる手料理の温もりの方がどんなにうつくしいことだろう。
思いやりの気持ちや優しい気持ちは目に見えない。
ほんとに人間の感性はさまざまだ。
だが、おれはそういう感受性をもちながら存在している。
それは分かり合えない悲しみも生むことだ。わざわざビルのてっぺんで高級なディナーを食べる人々はそれ相応の感受性と存在の仕方をしている。
俺の感受性とそのような感受性どっちがいい悪いはない。
しかし、分かり合えないということが悲しい。
いつから私たちはバラバラになったり、分断されたり、水を分けあえることもなくなってしまったんだろう…

遠藤周作「沈黙」

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

遠藤周作『沈黙』読了。
結論から申し上げよう。後半から畳み掛けるように、いい意味で期待を裏切るほど面白かった。
というと語弊があるかもしれないので、具体的には「どう」面白かったというと、2つある。

後半での苦難に喘ぐ信徒たちを黙って何もせず救わない「沈黙」を保つ神に対しての主人公の内的な対話。
主人公に棄教を促す他者たちとの信仰を巡る問答や議論もドストエフスキーの『カラ兄』にある「大審問官」の章のようでとても面白かった。

信仰を持つものたちの「独りよがりの虚栄心」(作中の先に棄教したフェレイラが主人公を誘惑的に諭した言葉)といった陥穽や人間としての弱さや信仰を持つ強さや優しさなどその他、信仰を巡る諸々を、主人公の生々しい葛藤や引き裂かれを心理描写を通して"抉り出す"読み応えのある素晴らしい読書体験だった。