『七月の炭酸水』

作家・アート系気質な場末人の生存と残像。

「母性の宗教」

 

切支丹の里 (中公文庫)

切支丹の里 (中公文庫)

 

 

 

キリスト教文学というか、隠れキリシタンキリスト教を切り口に
人間心理に対する哲学的とも言える「問い」とそれに対する〈弱き者〉の心情から人間を考察・探求してゆく遠藤周作の『思索』こそが遠藤の文学なんだと感じた。

ーー踏跡で黒ずんだ一枚の踏絵を見た感動から、基督教禁止時代の殉教者よりも、棄教した宣教師や切支丹の心情に強く惹かれた著者。島原などの隠れ切支丹の里を訪ね歩き、基督教が日本の風土と歴史の中で変貌していく様を真摯な取材と文献の中から考察する。名作『沈黙』を貫く著者独自の思想がうかがえる紀行・作品集。
(背表紙解題より)

私の感受性くらい....

欲の深い人は浅ましい。と私の感受性は感じる。
高層ビルのてっぺんかなんかでディナーといって、フェイスブックにあげる人などいるけど俺はそういう人種とは付き合えない。
羨望ではない。
シリア難民や世界中でも苦しんでいる人がいるし、日本でもいまだに東北や熊本で苦しんでいるひともいる。
そのことを考えると、たとえタワーのてっぺんでで超高級ディナーを喰っても罪悪感からちっとも俺はうまく感じないだろう。それならおれは困っている人への炊き出しの方が百万倍うまく感じるし、大事な人のためにつくる手料理の温もりの方がどんなにうつくしいことだろう。
思いやりの気持ちや優しい気持ちは目に見えない。
ほんとに人間の感性はさまざまだ。
だが、おれはそういう感受性をもちながら存在している。
それは分かり合えない悲しみも生むことだ。わざわざビルのてっぺんで高級なディナーを食べる人々はそれ相応の感受性と存在の仕方をしている。
俺の感受性とそのような感受性どっちがいい悪いはない。
しかし、分かり合えないということが悲しい。
いつから私たちはバラバラになったり、分断されたり、水を分けあえることもなくなってしまったんだろう…

遠藤周作「沈黙」

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

遠藤周作『沈黙』読了。
結論から申し上げよう。後半から畳み掛けるように、いい意味で期待を裏切るほど面白かった。
というと語弊があるかもしれないので、具体的には「どう」面白かったというと、2つある。

後半での苦難に喘ぐ信徒たちを黙って何もせず救わない「沈黙」を保つ神に対しての主人公の内的な対話。
主人公に棄教を促す他者たちとの信仰を巡る問答や議論もドストエフスキーの『カラ兄』にある「大審問官」の章のようでとても面白かった。

信仰を持つものたちの「独りよがりの虚栄心」(作中の先に棄教したフェレイラが主人公を誘惑的に諭した言葉)といった陥穽や人間としての弱さや信仰を持つ強さや優しさなどその他、信仰を巡る諸々を、主人公の生々しい葛藤や引き裂かれを心理描写を通して"抉り出す"読み応えのある素晴らしい読書体験だった。

我輩は猫である

読了。18,19歳の時以来の通読。


ユーモアたっぷりのドタバタコメディみたいだったが、ところどころに突き刺さるような人生へのアフォリズムやせかせか急き立てられるような近代化への深い懐疑、それに対する日本の消極的文化と自然を重んじる文化への登場人物の郷愁から、去私則天の思想の萌芽が読み取れるような深い読みができた。

 

最後半は個人主義に懐疑的な記述やいずれ近代人は自殺が増えるだの陰鬱な文明批判が目につき、猫もビールを飲んで酔っ払ったせいで、うっかり水瓶に落ちてしまう。出ようと足掻くが、自然に身を委ねて死んでゆき小説は終わる。

 

最後の水瓶に嵌り、猫が足掻くさまは近代化のあくせくの「鉄の檻」(M.ヴェーバー)をそのまま活写しているようで、姜尚中ヴェーバー漱石を研究するところにたどり着くのは、必然的に至極もっともだなと感じいった。

 

やっぱり歳をとると丁寧に深く読めたよーな気もした。12年くらいぶり?

 

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

マックス・ウェーバーと近代 (岩波現代文庫)

マックス・ウェーバーと近代 (岩波現代文庫)

 

 

夏目漱石 (岩波新書)

夏目漱石 (岩波新書)

 

 

 

昨夜のベルリンでのテロについて。ドイツ基本法 庇護権と現実

www.bbc.com

 

将来、ドイツに語学留学とかしたいと思っている俺にとっては、
衝撃のニュースだ。事件の被害者の方ドイツの方々に哀悼とお悔やみを申し上げたい。
それからまた、これをきっかけにイスラムフォビア
第三極政党AfDや排外主義の伸長など社会や政治へのインパクトが懸念されることは必死だろう。
私個人としては過去の歴史の反省を踏まえた難民に対するドイツの寛容な姿勢はとても立派だと感じていたが、
それは残念ながら理想であり、現状や現実はそう甘くないし、過酷で厳しいことを認識せざるを得ないように感じた。さすがに俺がドイツ国民だったら、ドイツ社会が危険になるようなことは、難民の庇護権などがドイツ基本法で条文化されていても、
崇高な理想よりも自分や家族の安心できる生活を優先したくなるだろうこんなことが起きたら...

 

ドイツ基本法と庇護権についてはこちらの引用を参照http://blog.goo.ne.jp/mi…/e/4231deb821e15596267d45bc231d59f1

 

【昨日『グループスキーマ療法』が家に届いた】

 

グループスキーマ療法―グループを家族に見立てる治療的再養育法実践ガイド

グループスキーマ療法―グループを家族に見立てる治療的再養育法実践ガイド

 

 

 

感動を通り越して感慨深かった。
翻訳を拝読しても、ここまでチームの4年間の労力は
決して監訳者の責任ではなく、チームで「良い作品」を作ろうという愛情の表れだったように僕は感じたし、それだけ密度の濃い
圧倒的な質の翻訳になっていると読んでいて感じた。

個人的なことでは、27歳の若書きで処女翻訳ということを差し引いても、自分の「物書き」としての課題も浮き彫りに最近なっている。
この仕事からだけではなく、最近ビジネス文章やいわゆる「大人の文章」「相手の立場に立った文章」と言った点からは個人的に課題があると感じている。

それは俺が文学青年ゆえ、しばしば美文調になってしまっているクセだ。
特に専門書だともっとソリッドに訳さないとダメだということ(形容詞や副詞を過剰に(ナイーヴに?)訳文につけたがる美文調の悪いクセ)
は前作のモードアプローチと今回のGSTで痛感した。

もちろんこれは翻訳だけでなく、あらゆる文章にも共通する。

普段から書類や書き物をしてもついつい「書きすぎて」しまう。
よく言えば、繊細に丁寧に取りこぼさないように書いているとも言えなくもないが、
どうしてもソリッドにシャープに書いた方が相手や読者に伝わりやすいという点も重要である。

「書きすぎない技術」も大事だと思うようになった。

ただそれを意識するがあまり自分の個性や文体のビートを殺してしまっては元も子もないのだが、TPOに合わせモードを切り替える
フリーハンドの文章でも推敲してみる、時には「書きすぎない」ことも意識してみることでさらなる文章の技術のレベルが上がるのではないかとも感じている次第である。

いずれにせよ、27歳の若書きがいまとなってみれば恥ずかしいなとか未熟だなあとか感じ入った昨晩であるが、

恥をかいてでも「チャレンジ」しなければ何も始まらない。

そのことを考えると私個人にとっては本当に素晴らしい経験であり仕事であったな。と幸せを感じ、形になったGSTに対して愛情を持っている。

「グループスキーマ療法の翻訳チーム(グループ)」に心から感謝を申し上げたい。
僕もその仲間として未熟で微力ながらも身を削りながら一生懸命翻訳をしたことに何ら偽りはないから、チームの一員としても個人としても誇りに思っています。ありがとう。

アレント『全体主義の起源』とポピュリズム

 

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

 

今、アメリカやヨーロッパや私たちの国でも起こっているポピュリズム的流れやトランプ当選をメディアや報道が分析する時、盛んに使われる言葉/言説である「怒れる白人中間階層」や「サイレント・マジョリティ」という言葉を聴いていると、
アレントの「全体主義の起源」で述べられたキーワードである「モッブ」や「人種主義」「帝国主義」を連想してしまう。(現在でいうと「帝国主義」≒「グローバル資本の暴走」かもしれない)

ポピュリズム」と「全体主義」ではその意味も中身も違うと思うけれど、何か似たような共通点があるなあと。特に中間階層の瓦解とその不満や社会の不安定さが過激な指導者を待望する民衆(アレントの言葉で言えばモッブ)を生み出すといった流れは、共通点があるかもなあと感じる今日この頃です。