昨夜のベルリンでのテロについて。ドイツ基本法 庇護権と現実
将来、ドイツに語学留学とかしたいと思っている俺にとっては、
衝撃のニュースだ。事件の被害者の方ドイツの方々に哀悼とお悔やみを申し上げたい。
それからまた、これをきっかけにイスラムフォビアや
第三極政党AfDや排外主義の伸長など社会や政治へのインパクトが懸念されることは必死だろう。
私個人としては過去の歴史の反省を踏まえた難民に対するドイツの寛容な姿勢はとても立派だと感じていたが、
それは残念ながら理想であり、現状や現実はそう甘くないし、過酷で厳しいことを認識せざるを得ないように感じた。さすがに俺がドイツ国民だったら、ドイツ社会が危険になるようなことは、難民の庇護権などがドイツ基本法で条文化されていても、崇高な理想よりも自分や家族の安心できる生活を優先したくなるだろうこんなことが起きたら...
【昨日『グループスキーマ療法』が家に届いた】
グループスキーマ療法―グループを家族に見立てる治療的再養育法実践ガイド
- 作者: ジョアン・M・ファレル,イダ・A・ショー,伊藤絵美,大島郁葉
- 出版社/メーカー: 金剛出版
- 発売日: 2016/11/30
- メディア: 単行本
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感動を通り越して感慨深かった。
翻訳を拝読しても、ここまでチームの4年間の労力は
決して監訳者の責任ではなく、チームで「良い作品」を作ろうという愛情の表れだったように僕は感じたし、それだけ密度の濃い
圧倒的な質の翻訳になっていると読んでいて感じた。
個人的なことでは、27歳の若書きで処女翻訳ということを差し引いても、自分の「物書き」としての課題も浮き彫りに最近なっている。
この仕事からだけではなく、最近ビジネス文章やいわゆる「大人の文章」「相手の立場に立った文章」と言った点からは個人的に課題があると感じている。
それは俺が文学青年ゆえ、しばしば美文調になってしまっているクセだ。
特に専門書だともっとソリッドに訳さないとダメだということ(形容詞や副詞を過剰に(ナイーヴに?)訳文につけたがる美文調の悪いクセ)
は前作のモードアプローチと今回のGSTで痛感した。
もちろんこれは翻訳だけでなく、あらゆる文章にも共通する。
普段から書類や書き物をしてもついつい「書きすぎて」しまう。
よく言えば、繊細に丁寧に取りこぼさないように書いているとも言えなくもないが、
どうしてもソリッドにシャープに書いた方が相手や読者に伝わりやすいという点も重要である。
「書きすぎない技術」も大事だと思うようになった。
ただそれを意識するがあまり自分の個性や文体のビートを殺してしまっては元も子もないのだが、TPOに合わせモードを切り替える
フリーハンドの文章でも推敲してみる、時には「書きすぎない」ことも意識してみることでさらなる文章の技術のレベルが上がるのではないかとも感じている次第である。
いずれにせよ、27歳の若書きがいまとなってみれば恥ずかしいなとか未熟だなあとか感じ入った昨晩であるが、
恥をかいてでも「チャレンジ」しなければ何も始まらない。
そのことを考えると私個人にとっては本当に素晴らしい経験であり仕事であったな。と幸せを感じ、形になったGSTに対して愛情を持っている。
「グループスキーマ療法の翻訳チーム(グループ)」に心から感謝を申し上げたい。
僕もその仲間として未熟で微力ながらも身を削りながら一生懸命翻訳をしたことに何ら偽りはないから、チームの一員としても個人としても誇りに思っています。ありがとう。
アレント『全体主義の起源』とポピュリズム
今、アメリカやヨーロッパや私たちの国でも起こっているポピュリズム的流れやトランプ当選をメディアや報道が分析する時、盛んに使われる言葉/言説である「怒れる白人中間階層」や「サイレント・マジョリティ」という言葉を聴いていると、
アレントの「全体主義の起源」で述べられたキーワードである「モッブ」や「人種主義」「帝国主義」を連想してしまう。(現在でいうと「帝国主義」≒「グローバル資本の暴走」かもしれない)
「ポピュリズム」と「全体主義」ではその意味も中身も違うと思うけれど、何か似たような共通点があるなあと。特に中間階層の瓦解とその不満や社会の不安定さが過激な指導者を待望する民衆(アレントの言葉で言えばモッブ)を生み出すといった流れは、共通点があるかもなあと感じる今日この頃です。
変化し続けること
俺は最近国内サッカーのタブロイド紙
『エルゴラッソ』という週三回でるやつをいつも楽しみにしている。
俺は色々モチベーションを上げたい時などには、
インスタントラーメンみたいなビジネス書なんかより
アスリート(特にサッカー選手、監督)の哲学やマインドセットで
上げることが多い。
そこには普遍的な哲学も含まれている。
ー『サッカーは人生だ。』
そういったのは元日本代表監督のイビツァ・オシムである。
彼はサッカー監督とともに哲学者である。
彼のウィットとユーモアに富んだ哲学が俺は大好きだ。
未だに影響を受けている。
「変化し続けることを恐れてはならない」
「コレクティヴであること、チームに献身することを厭わないこと」
「ポリバレントにクレバーにプレーすること」
*ポリバレント=複数のポジションがこなせる柔軟性と器用さ
などなど挙げればきりがない。
国内Jリーガーたち、選手のインタビューなどから刺激を受けることも
もちろん多い。
最近、ぐっときたのが、リオ五輪でU23日本代表のアタッカーとして
活躍した中島翔哉選手。
もちろんJリーグの選手もいろんな個性を持った選手がいる
それぞれの選手の持ち味や哲学をインタビューなどから学ぶことが多い。
俺も色々な場面で人々の良いところを盗んで自分の引き出しを広げたいと思っておる今日この頃。
新潮 2016年 10月号 所収 加藤典洋「シン・ゴジラ論」 読後感
雑誌「新潮」の加藤典洋「シン・ゴジラ論」読んでみたけど、全然面白くなかった。
世代的に初代ゴジラのインパクトが強いから、
初代ゴジラとシン・ゴジラについて論が半々だったし、
シン・ゴジラの解釈に至っては、エヴァとか庵野監督の作品とか、
影響を与えた「ナウシカ」とか「帰ってきたウルトラマン」とか
庵野のバックグラウンドをよく読み解いてないから、
彼の「アメリカの影」や「戦後入門」で使っていた語彙を使えば、
シン・ゴジラを論じた部分については「空振り」に終わっていたと思う。
最後の人型をエヴァの「リリスの足」みたいなものと決めつけていたし、(あれはわざと不気味にするための演出で発展性のある意味のある部分であったのか?(俺はあれは使徒か巨神兵につながるものだと解釈している))
エヴァの使徒を「台風」のような天災のようなものとか、
それゆえ、第二形態を「鯰」(地震の象徴と加藤は感じたのだろうか?)のようと例えるあたり
(庵野監督は深海ザメの「ラブカ」みたいなイメージで作ってくれと発言している)
センスが感じられない。
多分、世代ゆえの限界(感度の鈍さ)もあるのかもね。ざんねん。
俺だったらこうは書かない。
「シン・ゴジラ」感想
第1作目のメッセージ性ある「ゴジラ」という作品を尊重し、なおかつ、裏切らない庵野ワールド(=エヴァンゲリオン/DAICONFILM版帰ってきたウノレトラマソの世界観)をしっかり醸し出している。所々にエヴァファンを唸らせるニクイ演出。
そして「ゴジラ」に「巨神兵」の要素を加味させ、愚かな人類に対して裁きを加えるような新しい「ゴジラ」観。それでいて「核」の社会問題に切り込むバランスもとっている。また戦闘シーンのエヴァを彷彿とさせるスタイリッシュさ。
俺みたいな子供の時に「ゴジラvsビオランテ」を見たかつての少年を震わせる当時の自衛隊が発進する時の「ゴジラvsビオランテ」で用いられた変わらないテーマ曲。それでいて帰ってきたウルトラマンやウルトラセブンを敬愛するマニアもうならせるであろうゴジラが倒れた時のサウンドエフェクトが帰ってきたウルトラマンで使われた怪獣が倒れるところのサウンドエフェクトを利用しているディティールのこだわり。
加えて、日本は米国の属国や傀儡だと繰り返し、述べる主人公たち(主人公は確か官房副長官)、根深い日本の戦後レジームを危うくもあり、けれども尤もでもある健全な愛国心を持ち国を守るために矢口プラン(作戦)の下に、核とは異なるゴジラ掃討作戦を進捗させる主人公。米国が主導する国連軍の無茶苦茶な核投下を被爆国としての日本国の矜持を持って何としても阻もうとする主人公の矢口率いる特命対策室のメンバーたち。日本が自力でゴジラを倒そうという重厚なストーリー。庵野は天才だなと思った。エンターテイメントとしても、第1作目の「ゴジラ」から受け継いだ核や文明への仮借なき批判と思想性のある作品としても。
それを現代の文脈で庵野がリビルドさせ昇華させた作品であった。
この作品はやはり第1作目のゴジラをこの世界に「誕生」せしめた「日本人」でなければ、作れない作品であることは間違えない。
『赤い灯』
ー(まだ、草稿で推敲まで行っておらず...ぽしゃったら申し訳ない。)