『七月の炭酸水』

うどんが好きな、場末人の生存と残像。

変化し続けること

俺は最近国内サッカーのタブロイド紙

エルゴラッソ』という週三回でるやつをいつも楽しみにしている。

俺は色々モチベーションを上げたい時などには、

インスタントラーメンみたいなビジネス書なんかより

アスリート(特にサッカー選手、監督)の哲学やマインドセットで

上げることが多い。

そこには普遍的な哲学も含まれている。

ー『サッカーは人生だ。』

そういったのは元日本代表監督のイビツァ・オシムである。

彼はサッカー監督とともに哲学者である。

彼のウィットとユーモアに富んだ哲学が俺は大好きだ。

未だに影響を受けている。

「変化し続けることを恐れてはならない」

「コレクティヴであること、チームに献身することを厭わないこと」

ポリバレントにクレバーにプレーすること」

ポリバレント=複数のポジションがこなせる柔軟性と器用さ

などなど挙げればきりがない。

 

もちろんオシムではなく、『エルゴラッソ』に掲載される

国内Jリーガーたち、選手のインタビューなどから刺激を受けることも

もちろん多い。

最近、ぐっときたのが、リオ五輪U23日本代表のアタッカーとして

活躍した中島翔哉選手。

もちろんJリーグの選手もいろんな個性を持った選手がいる

それぞれの選手の持ち味や哲学をインタビューなどから学ぶことが多い。

俺も色々な場面で人々の良いところを盗んで自分の引き出しを広げたいと思っておる今日この頃。

 

新潮 2016年 10月号 所収 加藤典洋「シン・ゴジラ論」 読後感

 

新潮 2016年 10 月号 [雑誌]

新潮 2016年 10 月号 [雑誌]

 

雑誌「新潮」の加藤典洋シン・ゴジラ論」読んでみたけど、全然面白くなかった。

世代的に初代ゴジラインパクトが強いから、
初代ゴジラシン・ゴジラについて論が半々だったし、
シン・ゴジラの解釈に至っては、エヴァとか庵野監督の作品とか、
影響を与えた「ナウシカ」とか「帰ってきたウルトラマン」とか
庵野のバックグラウンドをよく読み解いてないから、

彼の「アメリカの影」や「戦後入門」で使っていた語彙を使えば、
シン・ゴジラを論じた部分については「空振り」に終わっていたと思う。

最後の人型をエヴァの「リリスの足」みたいなものと決めつけていたし、(あれはわざと不気味にするための演出で発展性のある意味のある部分であったのか?(俺はあれは使徒か巨神兵につながるものだと解釈している))

エヴァの使徒を「台風」のような天災のようなものとか、
それゆえ、第二形態を「鯰」(地震の象徴と加藤は感じたのだろうか?)のようと例えるあたり
庵野監督は深海ザメの「ラブカ」みたいなイメージで作ってくれと発言している)
センスが感じられない。

多分、世代ゆえの限界(感度の鈍さ)もあるのかもね。ざんねん。

俺だったらこうは書かない。

「シン・ゴジラ」感想

第1作目のメッセージ性ある「ゴジラ」という作品を尊重し、なおかつ、裏切らない庵野ワールド(=エヴァンゲリオン/DAICONFILM版帰ってきたウノレトラマソの世界観)をしっかり醸し出している。所々にエヴァファンを唸らせるニクイ演出。

そして「ゴジラ」に「巨神兵」の要素を加味させ、愚かな人類に対して裁きを加えるような新しい「ゴジラ」観。それでいて「核」の社会問題に切り込むバランスもとっている。また戦闘シーンのエヴァを彷彿とさせるスタイリッシュさ。

 

俺みたいな子供の時に「ゴジラvsビオランテ」を見たかつての少年を震わせる当時の自衛隊が発進する時の「ゴジラvsビオランテ」で用いられた変わらないテーマ曲。それでいて帰ってきたウルトラマンウルトラセブンを敬愛するマニアもうならせるであろうゴジラが倒れた時のサウンドエフェクトが帰ってきたウルトラマンで使われた怪獣が倒れるところのサウンドエフェクトを利用しているディティールのこだわり。

 

加えて、日本は米国の属国や傀儡だと繰り返し、述べる主人公たち(主人公は確か官房副長官)、根深い日本の戦後レジームを危うくもあり、けれども尤もでもある健全な愛国心を持ち国を守るために矢口プラン(作戦)の下に、核とは異なるゴジラ掃討作戦を進捗させる主人公。米国が主導する国連軍の無茶苦茶な核投下を被爆国としての日本国の矜持を持って何としても阻もうとする主人公の矢口率いる特命対策室のメンバーたち。日本が自力でゴジラを倒そうという重厚なストーリー。庵野は天才だなと思った。エンターテイメントとしても、第1作目の「ゴジラ」から受け継いだ核や文明への仮借なき批判と思想性のある作品としても。

それを現代の文脈で庵野がリビルドさせ昇華させた作品であった。

 

この作品はやはり第1作目のゴジラをこの世界に「誕生」せしめた「日本人」でなければ、作れない作品であることは間違えない。

 
 

 

『7月の夜』

いつしか、

あったかい優しさと温もりがあった言葉も、何かのほんの些細なすれ違いでいつの間にかセメントのような言葉にすり替わって、二人の温度は冷えてゆく。降り積もる時がさらに二人を洪水のように二人を押し流し、引き離していく。

さよならなんだね。あなたはきっと幸せになれるよ?
だって僕を一瞬一瞬の刹那に幸せな気持ちにしてくれたから。僕はその尊い記憶を抱きしめて、その幸せが時の追憶になってゆくのを悲しんでいた
心はずっと雨降りでした。

恋愛における無償の愛は可能か?(未推敲・未校正)

恋愛における「無償の愛」そんなもの可能であろうか?
 
結論から言うと俺はそんなもの胡散臭いし、おおよそ簡単にはこの世界に偏在するものではないと思う。
 
例えば、キリスト教の愛の一つの形態の概念として「アガペー」というものがある。
俺は高校生の時はそれはなんて崇高な愛なんだと思ったが、今はぜんぜん違う。
 
臨床心理学を学び、ましてキリスト教信者でもない俺は「精神分析」の身も蓋もない「リビドーの交換エコノミー」を知った者としてはそんなもの形而上的概念に過ぎず、形而下(実際に私たちの生きている生活世界)にもありうるとしてもそれは極めて限定的で虚偽的な可能性が高いと私は感じる。
(*リビドー:平たく言えば対象に向かう強い心的エネルギーとここではしておこう)
 
精神分析的に考えれば、愛し愛されることとは、私の解釈だが両者のリビドー(愛し/愛されること)が厳密に等価ではなくとも、少なくとも2人の間で循環していることが健康的であると考えるし幸せであると考える。
 
無償の愛や俗に言う〈純粋〉な片思いがなぜ愛ではないか。
答えは簡単だ。私の貴重な「自己愛」という愛を対象に備給するだけで相手からは愛(リビドー)は帰ってこない。
つまり、これでは私の「自己愛」を減らし自分自身を全力で挫いている。
 
自分自身を愛せていないからだ。
自分自身の価値を認め自分自身を愛するそこから愛は始まる。
さらに踏み込んで言えば、自分自身の愛は自分一人の愛ではない
その歴史・背景を鑑みればあなたに愛を振り向けてきた両親や友達・親友・他者たちなど様々な愛に支えられ・与えられてあなたがいるはずだ。
 
時に世の中には自分の貴重な愛を一方的に対象に振り向け、不健康な愛にハマっている病理的な人もいるがそれは、自己破壊的で自分を愛せていない証拠であり、それは未成熟なものとしか言いようがない。
 
こと女性によっては母性をくすぐられるだの、母性愛が強いから云々などという人もいるかもしれないが、そういう人には「マターナリズム」(対義語は「パターナリズム」)という言葉を教えてあげた方がいいだろう。
 
(しかし、男女問わず病理的愛にハマっている人は存在するが、ここでは女性の例のみを挙げさせてもらった。) 
 
詳しい定義や詳細などはウィキペディアなどで検索されることをお願いしたいのだが、本稿の文脈からしてみれば、
不適切な女性の母性愛やマターナリズムは結局のところダメな男性をダメなまま甘やかし、自律性を奪い(自律性:自分の足でしっかり立つこと)、飼い殺し的に殺している〈弱者暴力〉に過ぎない。
 
そのようなことは優しさでも愛でもなんでもない。
自分を愛することなく、自分の貴重な愛を対象に投げ出し、貴重な自己の愛を浪費させ、しかも対象をspoilする。それは痛々しい共依存関係にすぎない。
ただの〈弱者暴力〉だ。

『梅雨の伴奏』

悲しみが村雨のようにひとしきり降り、さあっと通り過ぎてゆく。
今日は定期的にそんな1日(心象風景)だった。
 
ギタアを弾いたら、少し楽になった。スピッツの「冷たい頬」を歌詞を自分なりに少し変えて、
自分の情緒を流し込んで悲しく唄った。
 
スピッツはコードも難しくないし、わりとお手軽に唄える。
コスモス」という歌は俺の解釈では「車に乗って海に自殺に行く」というスピッツでもわりと稀有なうただ。(他にもそう捉えられる唄もあるだろうけれど)
 
秋の桜とかいてコスモス。まるで太宰の戯曲中編「冬の花火」みたいだ。
僕は地位も財産も何も保障されてはいない。
愛情を受けることも安心も保障もない、説明書もない。
くたびれた。こんなにもイカレやすい頭など、かみさまは知りはしない。
 
もうすぐ、夏がやってくる。